記憶はまるで生き物。
思い出せない部分があると
都合よく作り出して
その穴を埋めるんだ。
冒頭、近く
戦争時代のフラッシュバックを観る
映画監督のフォルマンが、
相談したセラピストに言われる言葉。
この映画は
ドキュメンタリー・アニメ。
実際に
監督自身が参加したはずなのに
欠落しているレバノン内戦の
記憶を探し出すために作った実写のドキュメンタリーを
わざわざ
アニメーションにしている。
このアニメが、
本当に美しい。
構図といい
色といい
動きといい
とにかく
痺れるほどに美しい。
その美しさは
描かれている現実には
あまりにも
似つかわしくないように見える。
この映画を
こんな美しくしていいのか?
その理由が
徐々に明らかに
そして
ラストではっきりとする。
自らの参加したレバノン内戦でイスラエル国防省の歩兵だった
監督のフォルマン。
当時、19歳。
どうしても記憶から欠落しているある風景。
どうして
その風景画
欠落してしまったのかを探る。
そこにいた人を訊ね
話しを聞く。
同僚たち、ジャーナリスト、
フラッシュバックの風景の中にいた
同僚は
そんな風景は知らない・・という。
それは幻想の風景なのだ・・。
証言によって
現出する戦場の風景。
そして
徐々に思い出す記憶・・。
さらに、そこに
幻想のような情景が重なる。
それは
まるでファンタジー。
監督は
そこで起こったことが
まるで
自分が作り出した
都合のよい記憶の補充てあるかのように・・。
美しく
描く・・。
監督は
別にアニメ監督ではない。
前作は実写だ。
それに
実写で撮ったドキュメンタリーもある。
なぜアニメにしたのか?
証言によって知った出来事を
実写として作る金がなかった・・かもしれない。
アニメによって
たくさんの人に見てもらい・・たかったかもしれない。
ただ
僕は邪推する。
監督は恐怖していたのかもしれない。
幻想に出てきた
海が、象徴するのは恐怖・・と
セラピストがいう。
だからこそ
リアルではなく
ファンタジーとして
美しく描いたのかもしれない。
前にも書いたけど
ドキュメンタリーは
現実の一部ではあるけど
現実ではないし
絶対に真実ではない。
だらだらと素人が撮った
未編集の子供の運動会の記録ビデオですら
そこには
自分の子供が中心の世界しか映っていない。
でも
現実は
たくさんの他の子供がいる。
当たり前のことだが。
監督は
恐怖でそこで起こったことを
実写として描くことが出来なかったのかもしれない。
アニメとして美しく着色、歪曲しなくては
ならなかったのかもしれない。
その恐怖を・・。
その果てに
ラストで現れた風景・・。
もしかしたら
監督は
あのラストすらファンタジーだと・・
思いたかったのかもしれない。
これを人間がやるわけがない
これに
監督自身が間接的に関与したことは
ファンタジーで幻想で
ただの記憶の補充なんだ・・と。
これはもちろん
僕がかってに思ったことです。
あくまでも・・。