昔
僕の好きなある戯曲家が
この作品があるから永遠に三谷幸喜を
許さない・・と
気持ちはわかる
正直、
作家にとって
検閲官などは本当の悪であり
検閲官を
善人に描くなんてのは
作家の風上にもおけない
おまけに三谷は
売れてる
いまだに
一人で売れている
むかつく
おそらく
そんなことを
言われるのを
三谷氏はわかっていたのだろう
いや
もうそこまでの作品で
散々、世間からいろいろといわれているのだろう
つまり
それは
この映画における
検閲官みたいなもの
つまりは
人が苦労して書いたものに
まるで
その権利がこちらにはある・・と
言わんばかりに
いちゃもんをつける
おまえは
なんの権利があって俺の作品を
けなすんだ

まずおそらく
この映画をけなす人の論点として
検閲官が検閲しているところ、
論点に
全然
リアリティがない・・という点だろう
国家権力の象徴として
描きながら
権力の視点としての検閲になってない・・と
正直
この戯曲を
井上ひさしが書いたら
その辺のリアリティを物凄い迫力で
なおかつ
喜劇として描いていくだろう
つまりは
三谷氏はこの映画で
国家の検閲の残酷さや非道さを
描きたいわけでではなく
もうセリフとしていっているが
「こんな非常時に喜劇なんか」書く意味を
えがきたかったのだろう
震災の後に
北野武が
「こんな時こそ笑いを・・とか言ってるけど
こんなときに笑えるわけがない」と書いていた
やっぱり
武さん、歳を取ったな・・と思った
絶望の時に
少しでも
それによって状況は何も変わらないけど
それでも
笑いによって少しでも
悲しみが薄れれば・・
それが笑いをつくるひとの
究極の責務だろう
その心を放棄したところに
お笑いの意味などないだろう
稲垣吾郎演じた椿一が
削除されるとわかっていながら
ギャグを書いてしまう愚かな習性
それは
笑いでしかなにも考えられない
喜劇人の悲しくも素晴らしい性
それを
笑わせられなくなった喜劇の人
北野武に望むのは
もう酷かもしれない
この物語は
キングの「ミザリー」だ
あの映画は作家が
書きたくなかったロマンス小説を
無理やり書かされるうちに
なぜか
傑作ができてしまった・・というはなし
それに
国家権力の手先である
検閲官が加担してしまうというのが
この映画の肝であり
それ自体を批判したら
じゃ、みるなよ・・ということになる
そこから
最後に
浮かび上がってくるテーマは
「こんな非常時だから
笑いは必要」ということ
ただ
やはり
役所広司が最初から
善人にみえて
化けの皮がはがれていく過程の
スリリングさが薄いのは
役者のせいではなく
演出の力量不足と
三谷氏の詰めの甘さだろう